積丹半島をー周すると、岩内町から神恵内村赤石まで国道229号の海岸に約80の小漁港跡、導水路跡(袋澗)がある。これは明治から昭和期積丹半島鰊千石漁場で建設使用された、世界的土木遺産。連続崖海岸のこの半島は鰊水揚げに困難があり、本州の護岸、築城技術を応用して袋澗が建設された。この鋏型の澗は積丹最大の網元の田中家(番屋は小樽鰊御殿)が建設し、北海道遺産(第2回)、産業考古学会推薦産業遺産に指定された。
北海道の代表的漁業であった西海岸、離島の鰊漁は、漁場北上し昭和30年代に終焉した。水揚げ困難の道南の磯海岸でも、袋澗を造成した。中心漁場の瀬棚町には大正時代に作られた石造袋澗の遺構2基が残っている。瀬棚場所は幕末から繁栄し、1978年に建網52ケ統、1.5万石となったが、1920年に終漁した。袋澗建設は1899年に始まり、美谷中心に発達した。現物は貴重な蒲鉾型で長さ20m、高さ1.5m、2列遺構。
北海道の鰊漁場は、明治期の道南、大正から昭和前期の積丹半島、昭和中後期の利尻礼文島と確実に北上し、鰊漁は昭和38年に途絶した。西海岸と離島のこれら鰊漁場では、袋澗が発展的に建設され、道南は土塁石張型、積丹では中規模間知石練積型、利尻礼文では大型の間知石練積型に発展した。利尻島仙法志は袋澗の多い地区で、旧環境が保存され、同島最大の網元平田兵助は大正期に複雑で強固な大型袋澗を建設、現在2基中1にて保存。
函館市近郊の戸井町には、産業遺産として町内にコンクリートアーチ橋、戸井岬に戸井砲台遺構、鰯袋澗がある。道南漁場は袋澗史として初期に属し、明治期の土塁石張の初片鋏型とともに大正期の間知石練積の後期の方形が共存し、技術比較が出来て興味深い。この袋澗は西海岸・離島の鰊漁業用と異なり、津軽海峡東北に豊富な鰯漁用である。対象魚の鰯の魚体、習性、漁法が鰊に似ているため、鰊場の袋澗技術が導入されて建設された。
北海道鰊史の最終の利尻・礼文場所では、袋澗が発達した。利尻島には30基、礼文島には60基の袋澗が存在したことが記録にある。利尻島は間知石の建材の安山岩に恵まれ、大型で堅固な袋澗が発達したが、礼文島は玉石程度の部材しかなく、大型で堅固のものは存在しない。元地、南高山、香深、香深井、起登臼、西上泊に集中して袋澗があった。南高山の袋澗は大型方型で玉石も明瞭で当時の原型を止める唯一の貴重な産業遺産である。
利尻島の袋澗は、鴛泊、南浦、仙法志、九連、御崎にあり、造成時代が昭和初期でいずれもが大型で大漁港へ発展可能のものである。積丹の間知石練積玉石構造から発展し、常時の強波浪に対抗し強度を増すため鉄筋を使用している技術革新がある。利尻島玄関の鴛泊港は旧柳谷漁場だが、ここには護岸法として木枠玉石充填擁壁の他、間知石練積の廂付き方型の完全袋澗が1基、ニュー利尻ホテル前に残っている。平田袋澗とともに貴重遺産。
袋澗は積丹半島漁場のように、磯海岸で水揚げ困難な場所では必須の漁業土木、港湾技術で、最盛期は袋澗建設最多(泊40、神恵内40で全体の80%)の大正ー昭和前期で道内水揚げの1/3を担った。積丹3大網元であった神恵内村赤石の大網元で道議会議員であった出町初太郎が明治末の建設した出町袋澗は(建設費3万円)、「出町荘」前にあり、五段の堤体は薄めだが造りよく、形態は複合ハコで長さ100m、積丹で最大のもの。
積丹半島の袋澗は奥部分(神恵内、赤石)は明治期で資金潤沢、入口部分(兜、泊、岩内)は大正期で斜陽期で、奥部分に造作の立派な標本が多い。そのひとつが神恵内村入口のレストハウス隣にある竜神岬下の「木下の袋澗」で、築設80年を経て急速に一斉崩壊している積丹半島袋澗中で、旧状を保存している貴重な物件である。ハサミ型で縦横20mであるが、堤体、澗内の保存状態は最高で、世界遺産クラスである。道遺産認定。
積丹袋澗地帯に入る最初の大型袋澗で、国道229号線の崖下にあり、見落としがちだが、典型的な袋澗構造を見せる。右側の巨石を利用して、カニ鋏状の見地石鰊積堤体とプールがあり、引き潮時に見事な導水路が棚盤上に開削があるのが分かる。つまり、袋澗の海岸上での土木構造がはっきり認識出来る良標本である。海岸に降りると、鰊の沖揚げをした切り間(袋網口を結わえ、タモ網で袋網内の鰊を汲み上げた木製足場)の支柱等も残る。
積丹半島の泊村は、奥の神恵内村とならぶ袋澗の密集地帯である。特に、照岸の田中漁場に続く兜海岸には、隆起した広大な磯海岸(棚盤)に大型の5〜6ヶの初期袋澗(切り澗)が連続して切削されていて、導水路もあり見事な景観で、袋澗発達史的に貴重な遺産である。最盛期にはこの海岸上に多数のヤン衆が漁労に従事し共同漁場として壮観であった。この袋澗群を見下ろす高台上にはレストランがあり、ソーラン節碑もあって、ここは積丹鰊史と同時に積丹ブルーと呼ばれる崖海岸と水平線が素晴らしい積丹の一名所である。